遅ればせながらあけましておめでとうございます。
昨年6月、私(院長)はひっそりと還暦を迎えました。
佐藤内科診療所は、私の生まれる少し前に彼の地(桐畑)で開院と聞いています。
佐藤内科診療所も昨年還暦を迎えたわけです。
60歳は男女ともに厄年だそうです。
つまり私も診療所も、昨年は厄年だったわけです。
一昨年からのコロナ禍は、生活を一変させました。
診療所にとっても影響は甚大で、まさしく昨年は厄年と実感させられました。
今年は後厄となりますが、厄明け後はより一層の躍進をすべく、過去を振り返りつつ前を向いて準備を重ねてまいりたいと思います。
その一環として、新年より60年の診療所の歴史を振り返る「My 沿革」をスタートすることにしました。
診療所の歴史は、同時に自分自身の人生を振り返ることにもなります。
これから不定期にアップしてまいります。
どうか本年もよろしくお願いいたします。
写真は待合室にある大きな柱時計です。
佐藤内科診療所開院以来ずっと休まず時を刻んでくれています。
数年前に1回大修理に出したのですが、その後休まず時を刻んでいます。
2022年1月
(追記)
少しずつ贈れたり進んだりもするのですが、毎朝私(院長)がネジを巻いて適当に針を合わせると、いつの間にか診療終了時間にはほぼ正確に音を鳴らしてくれます。
(この肖像画は診察室の前に飾ってあります。作者不明)
当院の沿革を語る上で、まずは初代院長である祖父・佐藤三千三郎についてお話ししようと思います。(三千三郎と書いて「みちさぶろう」と読みます。)
私(院長)にとって祖父に当たる佐藤三千三郎(以下初代院長)は新潟県出身ですが、九州大学医学部を卒業しています。詳しい経緯は存じませんが、岩手医専(現岩手医大)の創設に関わり、初代院長に就任したそうです。岩手医大のHPには、初代院長が新渡戸稲造と写っている写真が載っています。
(出典:岩手医科大学のホームページより 写真中央 佐藤三千三郎、左 新渡戸稲造)
その後いつ頃どういう経緯かは聞いていませんが、当初横浜の別地区(白楽)で開業したそうです。しかし、戦火(恐らく横浜大空襲)で家と病院を失い、現在の地に移ったそうです。
現在の建物は、私が生まれる少し前に9床を持つ3階建ての有床診療所として建てられました。既に建設後60年を超えていますが、当時鉄筋コンクリートの3階建て病院は、個人病院としてはかなり珍しく、今でも建物自体は非常に頑丈です。
初代院長は、戦後剣道の復権に尽力し、昭和43年に神奈川文化賞体育部門で叙勲されています。また、昭和45年には勲三等・隻光旭日賞を拝命し、2つの表彰状が今も実家に飾られています。
こうやって書くと、恐らく一般的には「とても偉い先生」という印象を持たれるかと思います。事実私も、幼少時は祖母や母より「おじいちゃんはとても偉い人だった」と吹き込まれていたことを覚えています。何故か父(=2代目院長・佐藤泰雄)からはあまり言われなかったような気がしますが、そもそも休日以外父はほとんど子供の起きている時間に帰宅していなかったように思います。
ですが、物心つかない子供にとっては、単なる「ガンコジジイ」という印象でしかなく、幼少時の私は、正直祖父のことをあまり好きではありませんでした。
次回、孫にとっての祖父のエピソードをひとつご紹介します。
2023年10月
ここでは初代院長としてではなく、あくまで幼少時の孫にとっての祖父として、ひとつエピソードをご紹介します。
当時(恐らく昭和40年前後)、東欧を中心に世界情勢は不安定な状況で、「クーデター」という単語をよく耳にしていたような記憶があります。幼心に、大人になったらまたいつか戦争に巻き込まれるのではないかと思っていたものです。
ある時、夕方のニュースで東欧で大きな政変があったと報じられ、祖父が「これは大変だ、7時のニュースも見なければならん」といきり始めました。
(出典:プラハの春 1968年の様子 AFPのホームページより )
当時、7時と言ったら子供にとってはゴールデンタイムです。幼少時の私も毎週楽しみにしていたヒーローアニメ(エイトマン?)がありましたが、祖父が頑と言って譲りません。一家に一台しかテレビのない時代、子供にとっては泣いて抵抗するしかありません。ニュースなんて他の時間でもやっているし、ラジオでも聴けるはずと幼心に理不尽を感じたことをよく覚えています。
結局、その日は渋々チャンネル権を譲ってくれたようですが、その後祖母や母から責められて、帰宅した父にもチクられました。週末、顛末を聞いた父は一言、「泰弘、先週もみたじゃん」と言い放ちました。
私は、何の番組であったかは覚えていませんが、今でもこの「先週も見たじゃん」という父の一言は覚えています。幼心に、自分が大人になったら子供の気持ちが分かってあげられるようにしようと心に誓いました。
当時の大人にとって、ヒーローアニメや特撮なんて子供にとっては有害だという認識しかなかったのでしょう。しかし、今になって断言できることは、身を挺して人々を助けるヒーローを見ていなければ、私はきっと医学の道には進まなかったということです。ヒーロー達は、子供達に無意識に「正しいことはカッコイイ」「悪いことをすればやっつけられる」と教えてくれたと今でも思っています。
次回は、当院開業当時のエピソードについて私の記憶にある範囲でご紹介しようかと思います。
2025年1月